授業・研究内容

大学院、学部後期課程授業一覧

2022  2019  2018


学位論文題目一覧

【博士論文】

2021年度 

・複製技術時代の芸術家による美術史――1910-20年代の西洋絵画における古典古代と現代


2020年度

・モーリス・ブランショの「レシ」の思想

・洲浜の表象文化史

・大野一雄論――身体とエクリチュール

・犠牲の森で――大江健三郎作品における死生観

・伊波普猷の「日琉同祖論」――「政治神学」から「政治」へ


2019年度

・国民国家形成期のトルコにおける「国民的」漫画キャラクターの誕生と意義ーー伝統と近代の間に描かれた人物形象が獲得した自立性と表象機能

・子どもの能の変遷――世阿弥から長俊まで

・パーシヴァル・ローエルと世紀転換期アメリカ思想史

・関係性の表現――ヴァルター・ベンヤミンとモナドロジー

・清末・明治後期の「民」の諸相と文学表象(1900-1912)


2018年度

・音楽的想念の変容、シェーンベルクから後続世代へ――1920~30 年代のドイツ映画との関連から


2016年度

・聴くヘルダーリン/聴かれるヘルダーリン:試作行為における「おと」

・近代皇族表象の研究:昭和戦前・戦中・戦後期における直宮イメージを中心に


2015年度

・ミニマリズムとパースペクティヴ

・個人的なハーモニー:ユーリー・ノルシュテイン『話の話』を中心としたアニメーションの原形質的な可能性について

・「バロック歌唱」の成立と虚構性


2014年度

・ユートピア都市の書法:クロード=ニコラ・ルドゥの建築思想

・修辞学的崇高の系譜学:ロンギノスから現代へ

・東アジアにおけるトランス/ナショナルアクション映画研究:冷戦期日本・韓国・香港映画の男性身体・暴力・マーケット


2013年度

・孝の表象とその機能:二十四孝説話を基点として

・夢の世界のコンストラクター:アレクサンドル・ロトチェンコとソヴィエト文化の建設

・呪われた映画の詩学:『浮雲』とその時代

・神秘劇をオペラ座へ:バルトークとバラージュの共同作品としての『青ひげ公の城』


2012年度

・ドイツ現代美術における想起のかたち:ナチズム・ホロコーストをめぐる「記憶アート」の技法と歴史意識

・「病原菌」の歴史:実在・表象・歴史性について

・皇道仏教と大陸布教:十五年戦争期の宗教と国家


 

【修士論文】

2021年度

・演技する「 個」から「開かれた身体」 へ――近代的主体を超越した宮城聰の演劇実践

・矢野英征の『鷹の井戸』と「間」――「日本的なるもの」をめぐって

・絵画に生命を与えること――ルシアン・フロイドの裸体表象

・フェミニズムに対する想像を開く:中国のフェミニズム行動派の運動におけるフェミニズムの政治と性的マイノリティ

・「動き」の社会性――高畑勲のキャラクター・アニメーション

・流転するオブジェ――フルクサスにおけるオブジェの使用と流通

・科学とその「夜」:ジョルジュ・バタイユ「全般経済学」の射程

・ジャック゠ベニーニュ・ボシュエ:制度としての宗教

・古生物学における科学と芸術の相互的実践

・ミシェル・セールにおける生物の問題

・抵抗としての「生の形式」:シチュアシオニストの身振り

・集団と後継――増村保造初期作品論

・中国現代アートにおける展覧会の変容――「星星美展」とその回顧展をめぐる公共性の分析


2020年度

・無神論国家ソ連の宗教的バッハ像――シュヴァイツァーの解釈受容を軸に

・塩田明彦論――「父なき三部作」における光学的と触感的なもの

・頽廃の創造力――ジャン=ジャック・ルクー『新しい方法』とその時代

・〈時間〉から〈組織〉へ――TV ディレクター村木良彦のメディア論

・自然は抽象する――ホワイトヘッドの形而上学と抽象の問題

・情動を重ねること――ジョルジュ・バタイユ 「異質学」の政治的射程

・エドワード・スタイケンとニューヨーク近代美術館――写真家とキュレーターの狭間で

・日本におけるロボットキャラクターの成立――「暴走」と「自律」のロボットマンガ史

・森山大道初期作品における歌謡曲的政治性――「かっこわるい」写真家の肖像をめぐって

・王兵作品と観客の関係に関する考察


2019年度

・コレット『純粋なものと不純なもの』におけるアレゴリー表象

・ヴィジョンズ――アメリカン・ニュー・シネマにおける犯罪と逃走

・丹下健三と岡本太郎の旧東京都庁舎 (1957) における協働――戦後日本における芸術の「綜合」

・『肝っ玉おッ母とその子供たち』の記号論的構造――認識のレッスン

・パウル・ベッカーの作曲論――新音楽(1917-1923 年)を中心に

・アンドレイ・タルコフスキーにおける「時間の圧力」

・再行為としての展覧会

・写真を見ること、写真を通して見ること――ケンダル・ウォルトンによる「透明性テーゼ」の理論的射程

・音楽言語の自己否定的な身振り――テオドーア・W・アドルノの演奏理論

・白の欲望、白の神話――吉田喜重「日本近代批判3部作」論

・荒川修作とマドリン・ギンズにおける参加の要求

・なぜ道徳的であるべきか? 「道徳的正しさ」の概念的検討を通じた回答の試み

・成立期における中国映画理論――日本語による映画理論書の翻訳・紹介を中心に

・内田吐夢における「民族」のゆくえ――古典芸能にもとづく三作品をめぐって


2018年度

・ジョナス・メカス論――日記形式と映像の拡張

・形象と虚構――ジャン=リュック・ナンシーにおける提示の問題

・日本映画批評史における「風景論」――ポスト1968年の政治と芸術

・中国「現代主義」文学の形成とその限界――穆時英・戴望舒を中心に

・自由民権運動と漢詩――杉田定一を対象に

・ジャック・デリダにおけるエコノミーの問題

・健常性の欠落とゾンビの未来――2000年代以降の英米ゾンビ映画における生存のポリティクス

・19世紀フランスのブルジョワ家庭における少女と「人形(poupée)」――教育における媒体的機能の理念と実態

・東ドイツの「フォルマリズム論争」――『ルクルスの審問』をめぐる議論とその受容について


2017年度

・リチャード・セラ初期作品分析

・中国革命における「戦闘的」芸術と「牧歌的」芸術の間に――中国新興木版画運動の延安を中心に

・「中間領域」として立ち上がる「身体」――日本アニメ声優の身体性と声優に向ける欲望をめぐって

・革命の道具としての西洋楽器――文化大革命期における模範劇の創作と受容の再検討


2016年度

・エリック・ロメールの作品における謎――空間から場所へ

・リー・ストラスバーグの演技理論における「内面」の問題と可能性について――ユダヤ系移民第一世代の方法(メソッド)

・李禹煥の1970年代絵画――韓国単色画と日本美術の絵画回帰をめぐって

・リチャード・ハミルトン再考――初期作品(1949-1959)における「知覚」

・フランソワ・ベイルのアクースマティック音楽における音像生成と「音響スクリーン」への投影――電子音響音楽における聴覚イメージの空間化と身体性

・ジョルジョ・アガンベンの関係装置批判と他者論

・エリザベス朝演劇における「街」の境界不確定性

・メルロ=ポンティにおける「知覚の逆説」

・戦後イギリスにおけるデイヴィッド・シルヴェスターの美術批評

・トランスセクシュアル/トランスジェンダーのポリティクスと医療制度

・『雷雨』再解読――女性人物を中心に


2015年度

・『太平広記』の「精怪」譚から見た日本の器怪譚と『付喪神記』

・ピランデッロの短編小説における「死」の表象

・デジタルゲームにおける映像表現――カットシーンからゲームプレイへ

・ピーテル・デ・ホーホ論

・展示空間から都市へ――ダン・フレイヴィンの蛍光灯アート

・写真の主観性――淵上白陽における芸術と報道の接続

・『売糖歌』から見る日本占領下の映画と音楽――梁楽音と『萬世流芳』を中心に


2014年度

・森村泰昌における「なる」行為――写真、肉体、言葉

・方向を与えるもの:パウル・ツェラン『閾から閾へ』における「島」

・20世紀初頭の芸術思潮とアンドレ・レヴィンソンの舞踊批評概念――純粋芸術論の視点から

・痛み、傷、からだ――自傷行為と身体改造における〈回復〉ナラティヴの批判的考察

・レイモン・ベルールの「諸イメージの間」をめぐって:戦後フランスにおける映画―映像論の展開の一局面

・杉浦非水論――20世紀初頭の印刷図案における文字表現

・大江健三郎「後期の仕事(レイト・ワーク)」考――「私ら」を目指しての「書き直し」

・ウォーカー・エヴァンズの抵抗――記録のポリティクス

・オディロン・ルドンの神話的世界――生命と想像力の源

・テオドール・アドルノと「悪」の問題

・不協和音のアクチュアリティー――岡本太郎の「対極主義」分析

・E.T.A.ホフマン『砂男』論――火の表象と詩人の死

・点と点の間の〈女〉――草間彌生の芸術的活動における〈女性性〉をめぐる交渉

・民族と国家の間――1950年代の韓国における「東洋」論を巡って


2013年度

・火星の旅人――パーシヴァル・ローエルと世紀転換期のニューイングランド

・エマニュエル・レヴィナスにおける「犠牲」の問題系――「第三者」概念を基点に

・北京酷児映画展とその政治的可能性――中国独立映画運動とセクシュアル・マイノリティ運動との関わりを中心に

・生き延びる方法を探す――In-Yer-Face TheatreおよびMark Ravenhill 作品におけるポストモダニティと暴力、Shopping and Fucking から Some Explicit Polaroids

・イタリア分割主義絵画の理論と実践

・シュポール/シュルファス――絵画の実践と空間の広がり

・Art Is Not Enough――グラン・フュリーとエイズ危機時代のアメリカ

・神託、ランダム、可能性――アラン・チューリングの「人工知能」論

・リフレクション――ヴィデオアートの実践的美学


2012年度

・日本語を歌うことの限界と境界――四家文子と日本語を例に

・活弁史考

・解読する行為主体としてのサイボーグ――ダナ・ハラウェイのサイボーグ的視点における読みの戦略と実践

・書く人川端康成

・デリダにおける差異と政治

・身体的生と翻訳――現象学、ユダヤ思想及びフェミニズムの観点からのジュディス・バトラー読解

・虚構と迫真――三島由紀夫、田宮二郎、山崎豊子

・18世紀末から19世紀初頭におけるピクチャレスク「美学」の成立とその文学的受容

・モーリス・ブランショと歌――20世紀フランス文学における歌の系譜学に向けて


2011年度

・〈生活〉への信、〈像〉の思想――吉本隆明の出発

・無垢の未来――写真家セバスチャン・サルガドの撮るヤノマミ

・「日本歌曲」をめぐる言説の体系――芸術歌曲の制度化とメディア

・ファントマ・イメージの誕生とその変遷――映画とシュルレアリスムを中心に

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーに対する非ナチ化審理――1946年12月17日の審理を中心に

・ソーシャル・メディアの時代におけるサブカルチャーと文化産業の相互関係性について――日本のヴィジュアル系アーティストを事例に

・世阿弥能「江口」のドラマトルギー――「理」の意義と「天女舞」の演出をめぐって


2010年度

・能の中の子ども役者――世阿弥から長俊まで

・発明される身体――フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ『建築論』における身体・機械・建築

・見ることの距離について――マルセル・デュシャンとフレデリック・キースラーの展示空間

・現代和太鼓のはじまり――佐渡の鬼太鼓座の活動を中心に

・上海建築における「モダニズム様式」の形成と発展の研究――1930年代、上海の「近代性」をめぐって

・世阿弥の大和猿楽への意識と身体性――乱拍子と砕動風鬼・力動風鬼を中心に

コンピュータ音楽に媒介された相互作用とライヴ


2009年度

・「決断」の光景とその忘却――丸山眞男における「政治」と「歴史」の交錯

・ジョン・ジェスラン研究――メディアの時代の演劇作家

・《青ひげ公の城》論――戯曲と音楽のドラマツルギーにおける差異について

・ビロード革命と境界イメージ――チェコの80-90年代の想像力についての構造分析

・インプロヴィゼーション、システム、偶発性――ウィリアム・フォーサイスの解答

・大野一雄における女装の意義とその変遷――『ラ・アルヘンチーナ頌』に到る軌跡

・ジュディス・バトラーにおける「他者への倫理」――パフォーマティビティとメランコリーの理論を通じて

・小川紳介における時間の表象

・正しいイマージュと単なるイマージュ――ジガ・ヴェルトフ集団におけるジャン=リュック・ゴダール

 

 

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