「表象文化論研究」


東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論刊
第8号(2009年3月刊) イメージの作法──権力と表象|責任編集:中島隆博
坂口さやか「ルドルフ二世の神話イメージにおける政治性について」
星野 太「パトスに媒介されるイメージ──偽ロンギノス『崇高論』における「パンタシアー」の概念について」
伊藤 綾「表象の危機としての群衆経験──ボードレール「現代生活の画家」をめぐって」
河村 彩「幾何学的抽象を受け継ぐのは誰か? ──アメリカのポストモダン美術批評とソヴィエトの「運動」グループによる構成主義の受容をめぐって」
本田 晃子「演劇と建築の零度──構成主義運動における労働者クラブ建築」
宇野 瑞木「後漢墓の祠堂における孝の表象──扶桑樹と雲・風のモティーフをめぐって」
井戸 美里「理想郷としての異境──山口県伝来《四季耕作図屏風》の風景をめぐって」
第7号(2008年12月刊) 写真の逆説|責任編集:田中 純
野田吉郎「写真の中の余白の中身──東京ビエンナーレの再考可能性」
冨山由紀子「関口正夫の写真について──『日々』から『こと』へ」
調 文明「重ねるイメージ──ハンス・ベルメールの芸術実践とステレオポルノ写真との関係」
井上康彦「写真的驚異──マックス・エルンスト『中国のナイチンゲール』について」
土居伸彰「フレームを超えて──エイゼンシテイン芸術理論における「イメージ」について」
角井 誠「野遊び、隠れ家、探検──ジャン・ルノワールの『ピクニック』とそのラッシュ映像をめぐって」
第6号(2008年3月刊) 受容としての「日本思想」|責任編集:高橋哲哉
天内大樹「様式と国民の興亡——伊東忠太による『日本建築史』」
玉村 恭「有と無のはざま——世阿弥の思想形成の一側面」
小澤京子「近代日本の『美術』と『文化』をめぐる諸制度——矢代幸雄による美術史記述と文化国家論」
星野 太「崇高なる共同体——大杉栄の『生の哲学』とフランス生命主義」
三河隆之「横溢する命法——九鬼周造にみる現実性の哲学」
第5号(2006年3月刊) 映画のモビリティー|責任編集:松浦寿輝
石橋今日美「まなざしの共犯性——映画のモビリティーと観客」
三浦哲哉「『ラ・シオタ駅への列車の到着』と動けない観客」
山本久美子「オートモビリティと介入——アッバス・キアロスタミ『10話』
土田 環「途切れなき歩行線——ロベルト・ロッセリーニ『ルイ14世の権力奪取』における力の発生/派生」
大久保清朗「動揺と均衡のはざまで——成瀬巳喜男監督『秋立ちぬ』における一場面をめぐる考察」
小倉 史「『風俗映画』と『現在』のモビリティー——川島雄三と風景の変わり目」
御園生涼子「サスペンスと越境——『その夜の妻』における都市空間の変容と文化の移動」
第4号(2005年2月刊) 制度としての音楽|責任編集:長木誠司
戸祭哲子「古代ギリシア社会における器楽と器楽演奏家——社会的考察の試み」
鈴木 淳「『魔笛』の変遷と継承——18世紀末から19世紀初頭にかけてのミュンヘンにおける舞台絵画について」
中村 仁「ヒンデミットと青年音楽運動」
永岡 都「意味から機能への転換——S. ライヒ〈ザ・ケイヴ〉における音楽・テクスト・音声・映像」
第3号(2004年2月刊) エステティクス再考|責任編集:田中純
宮崎裕助「物質的崇高について——ポール・ド・マンのカント読解における視覚の問題」
大橋完太郎「盲者の感性論と唯物論的一元論——ディドロ『盲人書簡』読解」
柳澤田実「輝く闇——ニュッサのグレゴリオス『モーセの生涯』における神体験を巡って」
門林岳史「ジョイスを読むマクルーハン」
加治屋健司「グリーンバーグの疑惑」
平倉 圭「ゴダール的連結と『正しさ』の問題」
第2号(2003年3月刊) アジアの表象文化論|責任編集:小林康夫
劉 文兵「集団ヒステリーの身体表象——文革期中国のプロパガンダ演劇とその映画化」
竹峰義和「『国民的精神』の招喚——溝口健二の『国民映画』再考
レ・レ・ウィン「表現の奪還——植民地政権・軍事政権下のミャンマー映画」
木村理子「歌で演じた革命期——モンゴル演劇成立の歴史」
沖本幸子「歌への希求——後白河院の今様信仰をめぐって」
金 賢旭「中世日本の渡来神信仰をめぐって」
横山太郎「能楽堂の誕生」
第1号(2003年3月刊) 身体のロマン主義とリアリズム|責任編集:石光泰夫
石光泰夫「ホフマニアーナ、あるいはホフマンにたいするフロイトの嫉妬について」
橋本一径「個を複製すること——19世紀ヨーロッパにおけるアイデンティティを宿す身体の誕生」
貞包英之「饒舌と嘆息と——保田輿重郎論」
川口恵子「らせん・〈女〉・落下——ヒチコック映画作品『めまい』考」
田中祐理子「1900年的臨床身体・試論」
門林岳史「名の流通——〈フェヒナー〉をめぐって」