反射の思考

福沢諭吉はその主著『文明論之概略』(1875年)の「緒言」に、「あたかも一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」という有名な言葉を書きつけている。われわれが身を置いている2009年という今の時点で、ここ10年か15年ほどの急激な時代の転回に思いを致すとき、ある眩暈のような感覚とともに、この福沢とほぼ同じ感慨を抱かざるをえない。


現在進行中の時代の急変は、まだ「明治維新」のようなわかり易い符牒で命名されるには至っていない。実際、政治体制がひっくり返ったわけでもないし、「版籍奉還」や「廃藩置県」のような目に見える大きな制度変革が行なわれたわけでもない。しかし、歴史的重要性から言えば恐らくそれに匹敵するある決定的な変動のただなかに、いま間違いなくわれわれはいる。人文科学の「知」の基層に走った断裂線もその内部のささやかな一挿話でしかないかもしれぬその巨大な事件を何と呼ぶべきか、今のところいかなる人文科学のディシプリンも教えてはくれない。


それに向かい合い、いま表象文化論は何をなしうるのか。恐らく、決定的に新しい思考、決定的に新しい文体の創出が要請されている。1954年生まれのわたしに、もうそれはほぼ不可能だろう。それを担うのは、いま十代、二十代の若々しい精神と肉体の持ち主でなければなるまい。旧世代の務めは、彼らが拠って立ちうる堅固な地盤を整備し、彼らの新しい思考、新しい文体が上演されるにふさわしい舞台をしつらえることでなければなるまい。


維新の激動のただなかで、ではどう身を処すべきだと福沢は説いたのか。この賢人はこう続けている──「二生相比し両身相較し、その前生前身に得たるものを以て、これを今生今身に得たる西洋の文明に照らして、その形影の互に反射するを見ば、果して何の観を為すべきや。その議論、必ず確実ならざるを得ざるなり」と。一方に既存の「知」の歴史的蓄積があり、他方に怒涛のような新潮流のうねりがある。その両者の「形影の互に反射する」さまを見据えることが必要だと彼は説いたのである。


「旧」と「新」とを「反射」させ合うところに思考の堅固な基盤がかたちづくられる──あまりにも穏当にして常識的な方法論の提案ではある。問題を一挙に解決する華々しい提言を期待する向きは、この正攻法の迂遠さに拍子抜けするかもしれない。しかし、例によって例のごとく福沢は正しいとわたしは思う。今日なお拳々服膺するに値する賢者の言と呼ぶべきものだろう。「反射」は多種多様の形をとりうるはずだ。表象文化論の学生諸君に今わたしが切望するのは、種々の主題をめぐって、また種々のアプローチによって、この「反射」を現勢化し実践化しうる新しい思考、新しい文体の模索である。


コース主任 松浦寿輝